休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

錯覚とうにょうにょ

久しぶりに昔の集まりに顔を出したら、カップルがたくさんできていて驚いた。

なんというか、恋愛は脳のバグ派なので、バグりまくってるじゃんという印象である。話を聞いて、寂しい人や拗らせている同士がくっついたんだなあという感想を抱く。不甲斐ない自分が誰かに受け入れられているという感覚はとても甘く優しくグズグズと心身に染みるものな上に、いよいよ肌寒くなってくる季節ということもあり、宜なるかな、という感じである。しかしこんなことを言うから先輩後輩から好かれないのだとも思う。まあそれはいい。

 

一人で寂しい同志が、二人になったって寂しくなくなるわけではない。私は茨木のり子の詩が好きなのだけれど、彼女の作品の中に、一人でいる時 一番賑やかなヤツで あってくれ、という一節がある(『一人は賑やか』)。よく分かる。結局寂しさを紛らわせようと他人にすがっても、根本的なところは解決しない。だからと言って別に、全ての知り合いに一人で立てというつもりはないし、一生他人にすがって生きられるほどの図々しさがあるのならそれはそれでいいのだろう。ただ、私は一人でも賑やかな人が好きだし、そういう人と仲良くなれたらそれでいいじゃんと思うのである。

 

(この文章は、酔ってうにょうにょとなりながら、帰りの近鉄線の中で書かれた)

落し物の視界

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落し物が好きだ。

 

なぜ好きかを突き詰めていくと、見過ごされるものへの共感、という結論になった。

所有者の不注意で失せ物になり放って置かれる姿に、なりたくてなったわけでない苦労をしてきた自分を重ねているのだろう、という見立てである。どこまでも過去の自分が追いかけてくるのは、ほんとうにうっとおしいなあとしばしば思う。だからといって容易に辞められもしない。

 

落し物は、誰に拾われるでもなく、草むらや道路や道の端で、ただじっと身を潜めている。いつか回収される見込みもないし、ご主人様はきっと戻ってこないだろう。そういう諦念と、まあ騒いでも仕方ないしという達観とで、ぼんやりと風景を見ているように見える。その感じが好きだ。半分諦めながらも、自分のペースで世界に馴染んでいる、生命力のようなものを感じて好きだ。

 

というわけで、落し物を見つけると写真を撮ったり、心の琴線に触れるものであれば持ち帰ったりしている。完全に不審者である。上の絵は、つい最近拾った何かの部品で、世の中にはこんな大学生もいるのだということで落ちにしたい。

世渡りには向かないが

先日建築家の方のお話を聞いた。建築を仕事として本格的にやりたいとはもう思わないだろうが、やっぱり話を聞くのは楽しい。

 

面白かった話①

どんな建築を作るか決めきれずにもじもじした時期が数年あったが、とりあえず名前をつけたら、そこからアイデアが出てきた。

世界的建築家はそういう迷いとは無縁で、思いつくままにスケッチをばんばん描いているイメージがなんとなくあったのだが、親近感を感じた。自分も、タイトルだけ思いついた順に書き並べて、あとから中身を考えることがよくある。

 

面白かった話②

著名な建築家に会った。どれだけの切れ者だろうと思っていたが、実はそんなに賢くなくて、だけど情熱がすごかった。そこそこすごいと思ってた俺の情熱よりもはるかにすごくて、それで建築を辞めようと思った。

人に訴えかけるものは、頭の良さや世渡りのうまさではなく、ひたすらこれをやるんだ/とにかくこれが好きなんだ、という熱意だということを再確認した。私はそんな大人にしばしば会うし、そういう人たちが好きだ。しかし得てして、彼らは情熱が先走っており経済力はあまりない。それを知恵と強かさで切り抜けている。いわゆる世間一般のまともな大人からは遠い人々だが、私は彼らの世渡りに向かないまっとうさが大好きだ。彼らに共感するあたり、私もそちら側の人間なのだろうかと戦々恐々とする時もある。

ほんとうに好きだったもの、あるいは適性について

 17歳の時分に建築をやろうと思った。

 受験を見据えた時に、大学でものを作れそうな分野がそれだけだったからだ。

 

 ものづくりや創作は好きだった。絵でも文章でもなんでもやった。

 だけど一番好きなのは、完成されたものを愛でることだったかもしれない。多くの人の手を経て世に出されたものの美しい表面を撫でて、自分なりのストーリーをそこに見出すことだったかもしれない。

 

 To know everything

 Face front and look outside (全てを知りたいのならば もっと表面だけを見て)

 

 あるいは手を動かす中で生まれる、最後には捨てられてしまうものが好きだった。絵の具で汚れた版画版や、彫刻刀の先から生まれる削りカスが好きだった。普段からは一変した姿で、表面を抉られているために良い香りがした。捨てるのが勿体無いぐらい、私にとっては魅力的だった。特にお気に入りだったのは、針金をペンチで細かく切るとできる星のようなクズたち。それをたくさん作って筆箱に入れていた。

 

 そういう小学生の頃から持っている感覚を忘れていた。この歳になっても、自分のことが一番分からない。

 

 長らくものを作りたいと思っていたが、結局は素材の感触や匂い、加工するときの手応えが好きだったのだ。今でも削るために切り出した木のブロックや、3Dプリンタで出力されたプラスチックの塊を一番綺麗だと思う。そのままでいいんじゃない?とも思う。

 

 なぜ自分がそのような偏愛を持つようになったのかは分からない。理由が見当たらないからこそ、それは生まれもった特性に近いのだと思う。そういうものが、Callingに繋がるのかもしれない、いや繋がれ、と思う。

 

BGM東京事変『ハンサム過ぎて』

分かりやすい物語

 フィクションに分かりやすさは必要なのだろうか。

 

 解釈の余地がある作品、ひねった作品がよりいいものだと信じていた。しかし、めちゃくちゃ王道な、ひねりのないストーリに感動して泣いている人たちを見て、いい作品ってなんなんだろう…と思わずにはいられなかった。

 

 多くの人に評価される作品がつまらないとは思わない。ファンやアンチを超えて評価される作品があることも知っている。しかし、大衆的漫画が決して秀逸な作品ではないという例もある。

 

 中学の国語の先生が言っていたことをよく思い出す。「つまらない物語はないんや!好きな物語と嫌いな物語があるだけや!」要は受け取り手の問題である。

 

 ただ、武井壮が言っていたように、いいものは多くの人から求められるものだとすると、やはり分かりやすく感動できて多人数に求められる作品が良いものだ、ということになるのだろう。なんとなく釈然としないが、資本主義の世界では結局そういう結論になる。釈然としない感が残った。

深夜のファミレス

 深夜のファミレスはいつまで存在するのか/できるのかについてたまに考える。

 

 小説や漫画を読んでいると、しばしば、「深夜のファミレスに友達を呼び出す」みたいな記述が見受けられる。これまではふむと読み流していたが、ファミレスの人手不足の話を聞いたり、営業時間を短縮する世の流れを見るにつけ、不健全な営業時間の店が淘汰されるのはそう遠くないだろうな、と思う。個人的には深夜3時ぐらいの、店員もだるそうにしている飲食店の雰囲気が好きだったりする。まあそれが無くなったら無くなったで、別の場所が若者の溜まり場になるのだろう。ドラえもんの空き地がなくなったって、世の中は何も変わらない。

 

 

 下宿の頃、友達と深夜のファミレスに集まって勉強したり話したりしたなーと、時々思い返す。ドリンクバーを頼んで、長々と居座った。店を出ると真っ暗で、自転車を漕いで帰り、日の出までの短い時間寝た。ほんの1、2年前の出来事なのに、既に懐かしい。

 

 

 深夜のファミレスは概念だと思う。時間があるが金はなく暇を持て余した若者が吹き溜まる場所の象徴だ。実際に深夜の飲食店に行くと、案外人はいなかったりする。経済的損失だとか世間の印象だとかで淘汰されるのも仕方ないのかな、と思う。しかし、行き場のない人間が目的なく集える場所が消えてしまえとは思わない。そういった場所は大体グレーゾーンであり、グレーを嫌う人もいる。その一方で、白か黒かで割り切ると死んでしまう人もいるのだから、曖昧なままで居られる場所も必要だよね、と考えている。