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大学を休んでいる間、サボらないための日記

話せないと存在し得ないのかという問題について

 ここ一週間ほど、海外の人たちと行動を共にしていた。必然、英語でコミュニケーションをとるのだが、私は英語になると吃音がひどくなる。日本人同士で馬鹿話をしている最中に英語で話しかけられると、途端にしどろもどろになる様子、端から見れば胡散臭いんだろうなあと思いつつも、コントロールできないものはしょうがない。あらかじめうまく話せないときがあるから~、と断っていたため心の負担はマシだったが、周囲の人は私の落差に奇妙さを感じたのではないかと思っている。まあどうでもいい(と思わないとやってられない)。

 

 話すことが頭にあるのに口から出ないという状況は、日本語でも吃音の症状がひどかった頃に似ているため、練習をすればそのうち英語でもスラスラ話せるようになるんだろうなとは思う。しかしそれまでの道のりが長いんだこれが。道程の長さに気落ちせずにいたい。

 

 さて、ここで問題にしたいのは、それまでのことだ。つまり、壊滅的にコミュニケーションが取れない時期をどうやり過ごすかという点である。方法としては、

 

1.時間がかかるのは気にせずひたすら話す

2.必要最低限のコミュニケーションしかとらない

3.必要最低限の発話とジェスチャーなどの非言語コミュニケーションを組み合わせる

 

 などが挙げられる。今回私は1と2を主に用いた。人混みのような発話が苦手な場面では極力話さず、自分が落ちついて話せる場では無理矢理でも英語で話した。この方法の欠点は、人と仲良くなるのに時間がかかるということだった。海外の人と話す機会の多くは移動中だったため、そこで会話をしないと仲良くなれない。しかし、私は歩きながら話すのが苦手なために、その間は相槌しか打てない。なので、家に帰ってきた今、もう少し頑張ればよかったと後悔している。

 

 村上春樹の小説のキャラクターにシナモンという青年がいる。彼は一言も話さず、ジャスチャーのみで人とコミュニケーションする。なんとも神秘的なキャラクターだが、初めて彼が出てくる箇所を読んだ時、こんなに都合よく意思疎通できれば苦労しねーよ!と、イラついたものだった。初読から時間がたった今は、むしろ、こんな風に人と関われたらどれだけいいだろう、という気持ちの方が強い。指を一本立てたら、今は話せないのごめんね、って伝わったりね。

 

 世の中の人々がみんなシナモンのようだったらどれだけいいだろうと思う。しかし、世間の大半の人々にとっては、話さない=存在しないかのように扱われるということも(身に沁みて)知っている。今回私が一緒にいた海外の人々はとても賢くて優しい人たちだったため、私が話せない、あるいは発話に時間がかかっても、当たり前のように接してくれた。

 

 そのような人々の前では、私は存在できる。そうでない人々の前では、私は存在できない。相手に大きく依存する。これが障害者の障害者たる所以だと感じている。