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大学を休んでいる間、サボらないための日記

草むらとロマンチシズム

[ロマンチシズム] 空想的で情緒・感傷を好む精神的傾向。特に十八世紀末から十九世紀初めにかけてヨーロッパに流行した文芸上の傾向。古典主義に反抗し、個性を重んじ、知性より感情の優越を強調。浪漫主義。

 

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 花火を見に行った。土手に座って開始を待つ。土手には雑草が生い茂っており、だいたい大人の腰に届く高さだ。その中に座るので、雑草が壁のようになる。その状況に、楽しさと、なぜか懐かしさのようなものを感じた。そんな経験もないのにな。

 

 ここ四年ほど続けて、同じ花火大会に行っている。もともと大規模かつ混雑することで有名だが、今年は特に、人が多いと感じた。というか、年々来場者が増えている気がする。花火大会の前日に、地元・奈良の燈花会に行ったが、そこでも似たことを感じた。年々豪華になり、来場者も増加している。特に燈花会は子供の頃からの馴染みイベントだが、昔はもっと手作り感溢れる、片田舎のほのぼのイベントだった記憶がある。いつの間にこんな、インスタ映えおしゃれイベントに成長したのか、目を見張る思いだ。

 

 ネットに情報が溢れ、何を信じればいいのか思考放棄したくなる状況で、「皆が当たり前にいいとするイベント」がよしとされているのかな、と考えるのは短絡的に過ぎるだろうか。夏、浴衣を着て、友達や彼氏と花火を見にいく。ケチのつけようがないプランだ。深く考えなくてもいいね、と評価してもらえる行動をしたがる人が増えたのだろうか。あるいは、考えることに疲れたのだろうか。あるいは、自分の意思を持ちたくないのだろうか。なんの根拠もないため、これはただの一方的な妄想だが…

 

 あるいは、インターネット上の世界は、畢竟現実にはかなわないという証左だろうか。チクチクする草の上に座って、首筋に飛んでくる虫を払って、日差しに焼かれながら花火を待つ。非効率的だし、清潔でもない。しかしそういう肉体的な記憶は、良くも悪くも印象的なため、長く残りやすい。その種の記憶は、本人も意識しないタイミングで不意に表出する。夏草の青臭い臭いを嗅いだ時に、そういえばあの時、と思い出す。そういう記憶は、ネットの世界では得にくいのではないか。得れたとしても限定的なのではないか。そして、人々はそういったことに気が付き始めているのではないか。

 

 草むらってロマンだよね、と言って笑われた。ロマンは生活の隙間を埋めるものだと思う。効率的、合理的なだけでは、息苦しくて疲れてしまう。なぜなら、人間は非合理的な生き物だから。ロマンは突き詰めれば不必要なものだが、それを求める人が増えているのかな、と感じた。息苦しい日常で呼吸をするために、それは必要な間隙なのだと思う。