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大学を休んでいる間、サボらないための日記

言葉以前の言葉

(写真家Iさんのお話の続き)

 

 話の中で、Iさんが特に力を込めておっしゃっていたことがあった。「言葉で表現できるなら写真なんて撮らなくていい」。直感的にその台詞に惹かれた。それがなぜかと考えていたところ、自分がうっすらと感じていたインスタへの嫌悪感を解析する手がかりになるからだ、という答えにたどり着いた。

 

 ネット上で賞賛される写真は、美しいディナーや可愛いモデル、友達とどれだけ楽しく遊んだかなど、何を撮るかの方に重点が置かれている。それは価値が外部によって定義されるものだと思う。つまり、撮る人がいいと思ったから撮るのではなく、見る人がいいと思うものが写っている写真をよしとしている。それは自分のために写真を撮っていないのではないかと、言葉にならずとも感じていて、だからもやっとしていたのだな、とようやく分かった。

 

 このモデルさん可愛いねーという賞賛のされ方が、撮った人の承認欲求を満たし自尊心を満たすのならば、それはそれで正しいのだろう。しかしそれはカーストが高い人(この言い方もあまり好きではないが)と付き合うと自分まで価値が上がったかのように錯覚する感覚に近いものではないのだろうか。皆が良いと思うものを撮るのが自分の価値だと、そうしないと自分の価値は上がらないという論理が仮にでもあるならば、それは怖いなと思う。

 

 上記のような写真は、説明的な写真だ。なぜこれを撮ったのか?と聞かれれば、言葉で伝えられる。美味しいご飯を紹介したかったから。友達と遊んで楽しかったことを自慢したいから。それは広告写真と同じ構造のため、一種の様式美であるとも考えられる。しかし私は、全然映えなくても、撮る人がいいと思ったものが写った写真が好きだ。何が写っているのか分からない、それこそ言葉で説明されないと理解できない、もしかしたらそれでも理解できないぐらいの、写真が好きだ。撮る人がいいと思った、言葉以前の感性を、写し取られたものから読み解きたい。印刷されたものを通して、撮影者の視線を追体験する、それが写真なのではないか、と思うからだ。

 

 撮影者の視点=何に興味を惹かれるかという、撮影者の感性である。シャッターを切るばかりでは感性は磨かれない。これは他の表現物に通じる理論でもあり、逆説的で面白いなと思う。