休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

倒錯した美意識

 「わたし、孤独耐性はあると思ってますけどね」

 「それは違うと思う」

 

 「ほんとうに孤独な人はそんなこと言わない」

 「一般家庭で生まれ育った人が、孤独になるのは無理だよ」

 「誰にも言葉が通じない、誰からも話しかけられない、その状態がずうっと続く、それがほんとうの孤独」

 

 君が言っているのは一人が平気だってことじゃない?と指摘され、なるほどと考え込んだ。人と繋がるには才能と技術がいるが、孤独にも才能と技術がいるのだな、と思った。前者のそれは意図的で、後者は不可抗力だという気がするが。

 

  Q.人から好かれるには?

  A.笑顔でいる。話を聞く。相手が望むことをする。つまり、関わるメリットを感じさせる。

 

  Q.ではどのような人が嫌われるのだろうか?

  A.関わるメリットを感じさせない人。むしろマイナスになる人(見るだけで不快になるなど)。

 

 身も蓋もない。が、一時期はこういうことをペシミスティックに考えていた。

 

 確かに、わたしは真の孤独を体験したことはない。しかし、その手前まで行ったのかなとは思う。高校の頃の、誰にも話しかけられない、そして誰もわたしに関わろうとしない(関わるメリットがある人間ではなかった)という状態は、精神がねじ曲がる程度にはきつかった。わたしがそれに耐えられたのは、3年という時間制限があったからだ。もしその状態に終わりが見えなければ、ほんとうに鬱になっていたのではないかと思う。終わりのない青春というホラー。

 

 他人と意思疎通できないというのは、人間が社会的動物である以上、心の健康によくない因子の上位にくると思う。その原因は様々だ。常識が違っていて会話ができない。方言が強くて通じない。相手が聞く耳を持たない、など。そして、吃音もちのわたしは、吃音症や場面緘黙の人々は、割とこの状態に陥りやすいのだよな、とも思う。話せない、だから価値を見出されない、そしてより話かけられなくなるの負のループ。

 

 孤独の才能といえば聞こえはいいが、しかし孤独はいともたやすく人を殺す。それは身に沁みて分かっている。だから孤独な人を助けたい、などというと欺瞞に響く。なぜだろう。それは、真の孤独とは、助けたい、とも思われないからではないか。よしんば助けたい、と思われても、本人に助かりたいという意欲や希望がないからではないか。あまりに長い時間独りだったので、彼の心にはもう何ものの言葉も響かない。そういうイメージだ。

 

 そこまで考えて、孤独というのは概念なのだなと思った。それを追求するものまた、一つの美意識であるのだろうか。