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大学を休んでいる間、サボらないための日記

深い海の長い沈黙

f:id:tretretretre:20190508215513j:plain やればできる論者と非常に相性が悪い。

 

 日頃そういった人を避けて暮らしているのだが、どうしても関わらなければいけない事態は発生する。それは大体仕事の場面なので、さらによろしくない。

 

 人が教えてくれたことに対して返事をしなければならない。「これは、こうするんやで」はい、が言えない。なぜならその人はもし私が少しでも間違えれば、嫌味を言うことを知っているから。何も言われたくない。私のことは放っておいてくれ。完璧になんてできないんだから。努力しても。むしろ頑張れば頑張るほどポンコツになる私を、あなたはきっと理解できないだろう。

 

 

 あなたは私に仕事を続けて欲しくなかったと言う。私もそう思うので、黙り込む。返事をしろと怒られる。そりゃそうだ、私が悪い。分かっている。発声をコントロールできない人間が、こんな場所で働くべきではない。全く合理的だ。そう思っていながらも、私の我儘だと分かっていても、お金と自己実現の場所は必要だった。できないと決めつけていた接客をしている、お客さんに笑顔で話しかけられる、それに応えられる。全部夢のようだった。死ぬ気で頑張ったが吃音が完治しない事実に絶望して、それでも人と関わることが好きだから、時折ひどく吃っても気にしないメンタルを身につけて続けてきた。

 

 ある種の人にはこの努力が見えない。-4を-1にするような、泣きながら血豆を潰しながら穴を埋めてきた努力を、まだ凹んでるから頑張れ、と平気で言い放つ。なぜなら彼らはそれをしてきたから。しかし彼らにはそもそも穴が空いていないか、僅かな凹みしかなかったのに。

 

 こんな愚痴をいつまでも続けても仕方がない。明らかに向いていないと分かっていても、何かをやるべき時はあるし、やらなければいけない時がある。それはもう腹を括って飛び込むしかない。そこから無事に帰還できるかは運だが、長い沈黙ののちに深い海から還ってきたあなたは勇敢だ。誰がなんと言おうと。

無題4

この子はほんとうに強情で。ある母親が言う

彼女の後ろには女の子。母親の言葉に反応せず、じっと前を向いている

私は知っている。その子は内側で泣いていること

家に帰り布団に入り、暗闇の中一人になってようやく、実際に涙を流すこと

そのぐじゅぐじゅとした傷口が、中学生になっても、高校生になっても、ふとした瞬間に血を流し始めること

傷が癒えることはない。君はそれに一生苦しめられる

しかしいつか君の傷跡に気がついて、黙って包帯を渡してくれる人がきっと現れる。私はそれも知っている

だから君の傷はそのままでいい

だらだらと血を流しながら、顔を上げていればいい

Easy listening music と June moon song

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 音楽を聞くのもやるのも好きだ。だけど新しいバンドを開拓したり、自分のお気に入りのインディーズを見つけるとかいうことには無頓着だ。それは真の音楽好きではないのではないかと悶々としていたのだが、最近やっと自分の中で納得いく説明が見つかった。

 

 私は音そのものを楽しめれば満足なので、新しい音楽技法への興味が薄い。極論を言えば、鳥のさえずりでも、太鼓の音でも、鼓膜が震えさえすれば構わない。音は波動である。波は空気中を伝わり、体を震わせる。それが心地いい。なので、イージーリスニングミュージックで十分だし、ジューンムーンソングで何ら問題ない。一部のコアな音楽好きに怒られそうな意見だが、一定の真実でもあると思う。

爪を塗る

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 マニキュアを塗るのが好きだ。

 

 実のところ、日常生活で自分を女だと思うことがあまりない。なんとなく、少年のようだと思って過ごしている。しかし、ドラッグストアに寄ったとき、使いもしないマニキュアを買い集めている自分を発見すると、私にもそんな一面があったのね、と思う。

 照れくさいとか、そういう話ではない。自分が自認しているジェンダーの話である。

 

 日頃私は男でも女でもない、中性的な気分で暮らしている。好みの男性にときめく事もあるが、好みの女性を見つけてドキドキする時も、もちろんある。そんな自分は一体なんなのだろーと考えるが、私は私だよ、という結論にしかならない。当たり前だが。

 

 近代は二元論の時代だった。これからはその領域がなくなり溶け合っていく。そう落合陽一が言っていた。彼の発言を信じる信じないはおいておいて、周りを見て自分の頭で考えてみると、確かにそう変わりつつあるなあ、と感じる。変化の時代だ。境目がなくなり、あらゆるジャンルが溶け合っていく。性別も例外ではないだろう。

 

 その変化についていけなかったり、変化を許せない人ももちろんいる。年上の人と話していて、セクハラとしか思えない価値観にうわあと思うときもある。所詮他人なので、そういう人にやいやい言いはしない。だが、自分は、男なのに爪を塗るなんてと言う大人にはならないぞと決意を新たにした。

真面目な文なので絵で和らげる回

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 気づいた頃には、完璧でなくてはいけない、人に弱みを見せたら嫌われるという思い込みに支配されていた。

 いや、原因はよくわかっている。最もたるそれは、幼い頃から親が家にいる時間が短く、困った時は一人でなんとかしなくてはいけなかったからだ。その結果、確かに自主性ある人間に育ったが、同時に、人に助けを求められない厄介な人間にもなった。

 

 高校の時が一番ひどかった。思春期という面倒くささも合わさり、相当な堅物だった。自分の考えが一番正しくて、人の意見を聞き入れられなかった。それは自尊心の低さの裏返しでもあったが、その頃を思うと今はだいぶ丸くなったと思う。

 

 人に自分の弱みを見せたくないというプライドの高さ、あるいは虚栄心は諸刃の剣だ。耐えられるところまでは辛抱強く耐えるが、閾値を超えるとポッキリと折れて再起不能になってしまう。また、多少弱い部分を公開した方が、人に好かれることが多い。それを体で学んでからは、ある程度、自分のできなさを口にできるようになった。コンプレックスを他人に伝えるのに完全に抵抗が消えたわけではないが、そこのプライドはほとんど瓦解した。それで良いのだ。

 

 届かない理想として完璧主義を掲げるのはいいと思う。それは向上心なので。しかし、完璧主義を体現すると、これは人に迷惑をかけるので、まあ、自分の困った性格とはゆるく付き合っていきたいとしみじみ思う今日この頃です。

ただの日記を大げさに書いてみる・その二

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 二日目。海を見、展覧会に行き、展覧会に行き、東京駅を駆ける。

 

 友人宅の最寄駅に着いた時、うっすらと潮の匂いを感じた。そう、ここは海が近いのだ。ということで、翌朝友人と別れ、私は海に向かった。海はいい。千葉の海は汚なかったが、堤防沿いに歩くことができて大変満足した。昔から無性に海が好きなので、波を眺めるだけでもワクワクする。

 

 その後、JRに乗り、昨日行きそびれた佐藤オオキの展示に赴く。詳細は伏せるが、脳を無理やり動かされる感じがクセになる展示だった。派手ではないが、何かの折にふと思い出す初恋の人のような(何を言ってるんだか)。本当に隅々まで気配りが行き届いていて、準備に三年かかったというのに頷く。いいデザインに触れた時の充実感は、良いサービスを受けた時の感動に似ている。その満足感たるや、とサントリー美術館を後にする。

 

 また、私は21_21design sightが大好きなのだが、そこでも新しい展示をやっていたので立ち寄った。こちらも脳みそを揺さぶられる展示で、前情報が一切ない状態だったが大変良かった。ポプテピピックとボブネミミッミの関係というか、佐藤オオキの展示が銀座のお寿司だとしたら、こちらの展示はテキサスで食べるカリフォルニアロールのような、いろいろ盛り込みすぎてお腹いっぱいというか(本当に何を言ってるんだか)。ディスっているのではなく、たったの800円でこれだけ満足させてもらってありがとうございます。とても良かったです。

 

 旅行の前準備が苦手すぎて、帰りの新幹線のチケットを用意しないまま東京に来てしまった。GWの入りなので、確実に東京駅が混んでいる。と言うわけで、早めに観光を切り上げて、東京駅に舞い戻った。人混みの間をすり抜けて、無事チケットを入手する。

 

 最近は関東に出るのにもっぱら夜行バスを使っていたので、そうか、新幹線だとこんなに近いのね……としみじみ思う。だけど、私は深夜に立ち寄るサービスエリアの感傷が大好きなのだ。なので、またこんな弾丸旅行をしよう、と思いつつ、爆睡しながら帰路についた。

 

おわり 

 

映画・愛がなんだを観た

 愛がなんだを観ました。この映画を知ったきっかけは、彼氏と同棲している知り合いが、観たらズタボロにされそうと言っていたからだった。どないやねんと思っていたが、結果、心に棘がグサグサと刺さる作品だった。

 

 上映中何回も、やめたげて~それあかんやつやから!切なさで死ぬから!と呟いていた。自分のしょぼい恋愛遍歴では全ての登場人物の感情を理解はできなかったが、主人公・テルコの気持ちはグサグサと突き刺さってきた。というかこの女優さん、表情の演技がうますぎる。

 

 結局、どうでもいい人に対してはラフに接して好かれ、恋しい人に対しては気を使いすぎるあまりに嫌われるという、究極の真理を描いた作品だと感じた。幸せの絶頂で突っ走るテルコが、玄関先で守に、俺そういうとこ少し苦手と言われる場面の演技が!守の表情が!今まで何一つ愛に疑いがなかったテルコが初めて表情を曇らすのが! あ~やっちまったな~という感じで心にクリーンヒットした。なぜなら自分にもその気があるので。

 しかしこれは誰でもそうなのではないか。好きな人に対してはキモくなるし、相手のためと言いながら自分のためだったりするし、尽くしても何も残らないどころかマイナスだったりする。

 

 テルコの守への感情は、好きとか愛ではなくもはや執着だ。自分の気持ちに蓋をしてまで守と会える道を選択するシーンや、無職のテルコが象の飼育員になり、いまだに私はまもちゃんになれない、と独白するラストシーンには、うっすらと狂気すら感じる。しかし、この合理性のなさこそが人間味なんだろうと思わなくもない。そうそう、結局人間は動物で、馬鹿で、効率の悪い関係性に身を捧げて振り回される。それが良いか悪いかは私の判断の及ぶところではないが、少なくとも、その葛藤だとか回り道にドラマが生まれる。だから、一見クズで無駄と思えるものも無駄ではないのだ。その最中にいるのが苦しいのは言うまでもないが……

 

 しかし守がすがすがしいほどのクズだったな。恐ろしいのは、こんな人は割と現実にいるし、自分にだって片鱗はあるということ。純粋な恋がしたいと願ったって、その本質はこんなものなのだろう。

 と嘯いてみる。