休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

境界線を引く

 長いこと正論と綺麗事を振りかざす人が苦手だった。さらに、最近正論で追い詰められて泣いたので、より苦手になった。正しいことはいいことだと思うが、使いどころを間違えると再起不能なほど打ちのめされる場合があるので、人間って合理的じゃないなあ、と感じる。

 

 正論とモラハラの境界線は微妙だ。相手との関係性にもよるだろうが、注意してくれた人から親切心を感じるからといって、受け取る側の気持ちがズタズタになっていたら、それってモラハラじゃないの、という気がする。ただ、何事にもモラハラー!と言っていると、自分の行動を正す機会が失われて、モンスターが誕生するので、それはそれで難しい。

 

 これまで関わってきた中で正論を口にしたがる人は、自分が厳しくされてきた/自分にストイックだったために、同レベルで他人にも厳しくするタイプが多いように思う。自分自身その気があるので、本当に気をつけたい。こいつダメだ…(20年も生きていれば3000回くらいそう感じることはある)と思った時に、まず三回唱えよう。「この人は私ではない。この人は私の価値観を求めていない」

 

 親しい人ほど自分の視点に重ねて考えがちだが、そんな時こそ、自分と他人は別人だということを肝に銘じたいなあ、と感じた梅雨明けである。

日常は続く、ゆっくりと坂を転がりながら

(これを書いている)本日選挙があったので選挙の話をします。

 

 私が自主的に選挙に行ったのはこれで3回目だ。初めての時は、何も調べずに行き、適当に目についた名前を書いた。2回目には、事前にネットでマニフェストを調べた。今回は、政見放送を見たり各政党の傾向を調べてなるほどとなってから行った。人間成長するものである。

 

 実はずっと政治が嫌いだった。正確には、中学高校で教えられた政治・経済という科目が嫌いだった。教科書に書いてある内容は全て机上の空論に思えたので、バカらしくて真面目に学ぶ気が起きなかったのだ。参議院衆議院、公正な仕組み、互いに監視し合っている?ニュースや新聞を見ればマニフェストが守られていないことなんて分かっていたし、この綺麗事を勉強して何になるのと感じていた。

 

 私は行動が伴わない発言をする人物が苦手なので、それが政治に対する苦手意識につながっているのだろう。少し前に、霞ヶ関文学の存在を知って爆笑してしまったのだけれど、政治という世界は私の美意識から遠く離れた場所にあった。

 

 ところで、私のSNSは知人ばかりではなく発信力の高い人を幅広くフォローして、世間の情報がなるべく公平に流れてくるようにしている。私は本当に無知な上、興味のあること以外には腰が重いため、TLの人々の声には随分と勉強になる部分がある。そのようにして情報収拾をしていると、次第に、これはキナ臭いと思うようになっていった。世間で何か事件が起こるたびに、マスメディアの報道だけでなく、ネット上の分析も合わせて読むことで、母国に対する不信感が次第に湧き始めた。

 

 そういった感情が一気に高まったのが、就活を初めてからだったように思う。大学2回生までの私は、本当になんの根拠もなく、我々の未来はまあ大丈夫だろうと思っていた。それはほとんど何も考えていないのと同義だ。日々の課題に忙殺され暇もなかったので、しょうがない。という言い訳しかできない。(余談:しかしこれは、勉強ばかりしてきた真面目で素直な高学歴大学生が陥りがちな部分ではないのか、とも感じる。)

 

 就活を始めて割とすぐに、この社会が持続する未来が見えないぞ、と感じた。私はメーカー志望だったため、資本主義に疲弊している雰囲気や、行き詰まっている雰囲気を余計に感じやすかったのではないかと思う。また私は吃音もちであり、それは就活ではあまり有利な要素ではない。馬鹿正直に吃音のことを書いたり話して落ちるたびに、(もちろん相性が良くなかった会社もあるが)自分を偽らずに健常者ベースの社会に参入する厳しさを感じた。

 

 非常に単純というか、想像力がないというか、私が社会の仕組み≒政治に詳しくならねばと切実になり始めたのは、その辺りからだ。人間は体験したことしか理解できないという話であり、当事者の気持ちは当事者にしか分からないという話でもある。しかし、

 

 私はこの社会において弱者である。

 

 と、若くして明言できる人間がどれだけいるだろう。若さというのは傲慢になりがちだが、大きな不幸が排除された現代社会では、その傾向が助長されるように感じる。生まれつき直せない障害があるとか、在日だとか、望んだわけでもない”不幸”を持つ人々ぐらいしか、自分のことをそうだと認識できないのではないか、と思っている。

 

 集団がマジョリティに優しいのは当たり前だ。民主主義において、マイノリティの声が非常に届きにくいことも分かっている。しかし弱者の生きやすい世界は、多数派にとっても生きやすい世界だと私は信じている。だから、私はこの世界の構造を勉強して、自分が生きやすくなるためにはどうすればいいのか考えたい、と思うようになった。

 

 それから、マニフェストを読んでなに書いてるのかさっぱり分からん!となったり、そういや右翼左翼の違いも分かってなかったので全く畑違いの政治集団の中に飛び込んでみたり、いろいろあったけれど、長くなったのでここら辺で切ります。それでは。

後悔を丁寧に拾っていく仕事

 またサボっていた。具体的には、留学の報告書を認めたり、復学に向けて教授と話し合ったり、コンペを考えて部屋の中を付箋まみれにしたりしていた。

 

 久しぶりに教授と話した時に、私はこの一年弱色々とやってきたなあと思い、それによって成長したなと素直に感じた。えらい。しかし、その色々は、過去に悔しかったこと・遣りきれなかった思い出の清算なのだな、という気もした。

 

 うまく話せないことで、悔しかったり悲しかったりする思い出の方が多い子供時代であった。当時の心の傷はまあ、簡単には消えないし、そもそも抉られた場所にぴったり合うピースなんてものも存在しない。ただ、人並みになった自尊心と自負でもって、あの頃の自分ではできなかったことに挑戦し、成功体験を積み重ねている。薄皮を一枚づつ重ねていくような行為だ。私には、こういう地道な回復の仕方が向いていたのだろう。うまく話せなくても笑えるようになるまで、5年かかった。黙って耐えていた時間も含めると10年は下らない。長かったな。

 

 昔書いた文章を読むと、結構な悲壮感と焦燥感が文面からにじみ出ており、確かに当時の自分はそれはそれは切羽詰まっていたな、それゆえに盲目的に頑張っていたな、と思う。劣等感ゆえのひりつくような刹那的で自傷的な無茶。そんな向こう見ずな生き方はもうできないな。

 その季節が過ぎてしまったのは少し寂しくもあるが、私は今の自分も気に入っている。

 

つい感傷的な文を書いてしまうのは夏だからです。おわり。

異邦人として、1

 更新をサボってしまっていた。言い訳だが、しばらくフランスにいた。大学のプログラムで、ロボットを作っていた。

 

 留学らしきものは高校の時に一度して、全然英会話ができず悔しい思いをした。今回の旅はそのリベンジマッチの意味が大きい。初めはそう考えていた。しかし、実際に来てみると、リベンジの意味以上の体験が次々と飛び込んできて、頭の中が大混乱している。

 

 所詮自分は、東洋の一国のちっぽけなアジア人に過ぎないのだな、という頭でしか分かっていなかった事実が、体感として染み込んできたことが一番大きい。世界はこんなに広くて、こんなに人がいて、あらゆる場所にそれぞれの人生がある。その途方も無い事実に気が遠くなる。そして、なんの縁もない国に来た自分を説明する時に、確固たるアイディンティティなどないことに気がつく。私はなぜ私なのか?私はなぜこの専攻を選んで、こんな仕事を探しているのだろうか。いや、理由はあるのだ。しかし、日本だとなあなあで通じる感覚が、他言語で異なる背景を持つ人に説明しようとして初めて、どれだけ曖昧なものだったのか気がつく。(私が思慮深さに欠けているだけかもしれないが…)

 

 私は日本でもマイノリティに属するが、こちらではその属性がアジア人というマイノリティ性に飲み込まれてしまうのがとても面白い。以前から、話せないのではなく話さないのが問題だと考えていたことを、本当にそうだなと噛みしめている。

 

 正直英語は話せない。話せないが、どれだけ吃ろうがめちゃくちゃな文法で話そうが、耳を傾けてくれる人はいる。というかそうしないと自分を説明できない。自分を説明できないと、異なる属性の人と関わりあう手がかりも掴めない。

 

 しかしこれは、短期間しかいない異邦人だから許されている感じもする。異邦人というあからさまな違いがあるから、これだけ親切にしてもらえるのだろう(ペシミステックに過ぎるか?)。言葉が通じるほど生じる諍いもあるのだ。お互いに共通言語が喋れずジャスチャーでやり取りする、そんなコミュニケーションが一番平和なのかもしれないな、と思った。

愛すべき分かりやすい人々

素直な人が好きだ。

 

にこやかに笑ってたのに、内線が入った瞬間舌打ちするお姉さんとか、

 

少し踏み込んだ気持ちを吐露したら、露骨に安心した顔をする研究者とか、

 

SNSの投稿が分かりやすく増減する寂しがり屋とか、

 

すれ違いざまにめちゃくちゃ顔を見てくるお兄さんとか、

 

感情を隠して接されるくらいなら、不愉快でも露骨な方が安心する。

 

うまいこと回っているように見える社会の皮を一枚剥がすと、人間の不条理な感情がごろごろと転がっている。そういう、指の隙間から見えるホラー映画の薄暗い光、みたいなものに惹かれる。原因はなんとなく分かっている。また書こうと思う。

電車の窓の歪んだ像

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 これは妙だなという質問に遭遇した。

 

 鏡に映るあなたは歪んで見えますかという質問で、まあ心理テストのようなものだ。しかし、自分で歪みを自覚できたら、それはもはや歪みではないのでは、という疑問が拭えない。思わずその場で逆質問してしまった「歪みって自分で気がつかないから歪みじゃないんですか?!」 それを聞いてきたお姉さんを苦笑させてしまったことだけ反省している。

 

 何事もその渦中にいるときは気がつかない、という話が私は大好きで、何度も語ってしまう。これは数少ない世の真実だという気もする。歪みは特性の別名であり、本来ならばそれはただの現象だ。そこに意味づけをするのは人間であり、その際には多分な偏見が挟まることが多い。

 

 今日も地下鉄の窓に映る自分を見て暗い気持ちになる。私の鼻は低い。私の目は小さい。私の顔は丸い。ここがもう少しこうなら、ああなら。窓に貼られた広告の中で微笑むモデルと比較しては、深くため息をつきたくなる。

 

 しかし、考えてみると、鼻が低いのも目が小さいのも、それはただの造形であり、本来そこに優劣はないはずだ。誰がそこに意味づけをしたのか?一体私は何と比較しているのだろう?

 

 まあそんな簡単に開き直れないのが世の常である。しかし一度でも、自分でも気がついていなかったコンプレックスに気がつくと、それはもはやコンプレックスではなくなる。いや、それに苦しめられるのはあまり変わらないが、それは無知の知とでもいうべきものになる。だから、真の意味での歪みは決して自覚されない。地下鉄の窓に映るモンスターは、ほんとうの姿だ。あなたにとっては。