後悔を丁寧に拾っていく仕事
またサボっていた。具体的には、留学の報告書を認めたり、復学に向けて教授と話し合ったり、コンペを考えて部屋の中を付箋まみれにしたりしていた。
久しぶりに教授と話した時に、私はこの一年弱色々とやってきたなあと思い、それによって成長したなと素直に感じた。えらい。しかし、その色々は、過去に悔しかったこと・遣りきれなかった思い出の清算なのだな、という気もした。
うまく話せないことで、悔しかったり悲しかったりする思い出の方が多い子供時代であった。当時の心の傷はまあ、簡単には消えないし、そもそも抉られた場所にぴったり合うピースなんてものも存在しない。ただ、人並みになった自尊心と自負でもって、あの頃の自分ではできなかったことに挑戦し、成功体験を積み重ねている。薄皮を一枚づつ重ねていくような行為だ。私には、こういう地道な回復の仕方が向いていたのだろう。うまく話せなくても笑えるようになるまで、5年かかった。黙って耐えていた時間も含めると10年は下らない。長かったな。
昔書いた文章を読むと、結構な悲壮感と焦燥感が文面からにじみ出ており、確かに当時の自分はそれはそれは切羽詰まっていたな、それゆえに盲目的に頑張っていたな、と思う。劣等感ゆえのひりつくような刹那的で自傷的な無茶。そんな向こう見ずな生き方はもうできないな。
その季節が過ぎてしまったのは少し寂しくもあるが、私は今の自分も気に入っている。
つい感傷的な文を書いてしまうのは夏だからです。おわり。