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大学を休んでいる間、サボらないための日記

さみしさをこじらせて

 接客をしていると、様々な人種に出会う。もちろん深く関わることはない。けれど、短時間でも彼/彼女らの言動を見ていれば、どんな人間かはだいたい分かる。美は細部に宿る、ではないが、やはり人となりというものは、話し方から目つきから手や体の動かし方、無意識の部分に現れるのだなあと思う。

 

 様々なお客様が来店する、その中で、私は「寂しさを拗らせた人種」に鋭く反応してしまう。なぜなら、自分がそうだったからだ。いまでは一人でもいいや、と開き直れたが、昔はそうではなかった。いちいち他人の目を気にして、怯えていた。そんな過去の自分が垣間見える人は案外いて、そのような人に出会うたびに、ああ…と言葉にならない感情になる。その大半を占めるのは恥ずかしさ、次に同族嫌悪。あるいは、優越感。私はそこを抜け出したんだぞ、という高みの見物。それらに加え、しかし最近は、静かな心持ちになることが増えた。一歩間違えば自分もあのままだったのだろうと思うからだ。

 

 私は大きく変わった。それはひどく苦しく、痛かった。それは私の努力の結果だ。本当にそうだろうか?努力できる人格を作り上げてくれたお前の親、失敗しても攻めなかった先輩たち、泣いたら慰めてくれた友達、弱音を聞いてくれた彼氏、そういう人たちがお前の周りにいた。彼らにお前は救われた。それは、お前の実力ではない。それは運だ。お前は単に運が良かったのだ。お前は、「弱かったから死んだ」と言っているに過ぎない。

 

 それがどれほど傲慢か、自分で分かっている。全ては結果論だ。私が生き残れたのは偶然でしかない。

 

 西原理恵子が好きだ。特に、『ぼくんち』という作品が好きだ。これは西原理恵子の自伝的作品で、どうしようもない人間達のどうしようもない暮らしを描いている。この本の中に、最近よく反芻するフレーズがある。うろ覚えで書く。

 

シャブ中には娘がいた/こういち君にはお姉さんがいる/今日僕は分かった/人は一人では生きられない

 

結局こういうことなんですよ。こんなことばっかり考えてる。真っ当な人間になるって寂しいですね。