休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

僕は笠原メイが好き

 20を超えてから村上春樹をよく読むようになった。前はそんなに好きじゃなかったのにね。なんでだろう。積年の花粉が積もり積もって花粉症になるように、あの独特の文体が閾値を超えたのかもしれない(なに言ってんだか)。とはいえ私が好きなのは村上春樹のエッセイなので、そこまで小説の方を読み込んでいるわけではない。

 

 そんな浅い村上ファンの私だが、ねじまき鳥クロニクルだけは何度も繰り返し読んでいる。同じ長編でも、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドや1Q84は性に合わなかったが、ねじまき鳥クロニクルはとても好きだ。その理由の一つに、笠原メイというキャラクターの存在が挙げられる。破天荒な感じの女の子で、時にシリアスな本作の癒し要員だ(←この解釈は間違っています)。

 

それとも世の中には何種類かの人間がいて、ある人にとっては人生や世界は茶碗蒸し的に一貫したものであって、また別の人にとってはそれはマカロニ・グラタン的に行き当たりばったりのものなのでしょうか。私にはよくわからない。(中略)そしてそういう人は私がもし「茶碗蒸しのもとを入れてチンして、それがマカロニ・グラタンに変わることもたまにはあるのよね」と親切に説明してあげても絶対に信じないだろうし、逆にカンカンに怒ったりもするんだろうと思う。(中略)

村上春樹 ねじまき鳥クロニクル 第3部 P265より)

 

 最近とみにこのセリフを思い出す。上の言い方でいえば、私はまごうことなきマカロニ・グラタン人間だ。それは以前から分かっていたことだけれど、休学をして、同級生や大学そのものを枠の外から見るようになり、よりはっきりと自覚した。世間のレール通りに卒業したい、もしくはそれ以外の選択肢が思い浮かばないほど義務教育に洗脳されているがために、勉強や締め切りに苦しむ人たちを見ていると、自分は、あんな風に生きられなかったな、と思う。箱に自分の体を合わせていくような、生き方。

 一応断っておくと、私はそういう人たちをバカにはしていない。周囲の求めに自分を合わせられるというのは立派な才能だから。世の中には、自由に生きて役に立つ人も、人の望むように生きて役に立つ人も、色んな役割の人がいるのだから。

 

 話は飛ぶけれども、現代日本で若者でいるというのは、とても大変なことだと思う。なぜなら、選択の余地が少ないから。小中高とほぼ強制的に通わされ、そこからドロップアウトすると復帰は難しい。もちろん、これは極論であり、世の中には金銭の面で学校に通えない人も、自ら進んで専門学校に行く人もいる。しかし、幸運にもそういった家庭の事情がなく、おきまりのコースを歩む資格を与えられた子供でも、十代の大部分を過ごす学校という場所を生き抜くことはとても厳しい場合がある。

 

 学校というのはとても茶碗蒸し的な場所だ。資本主義ベースの社会の役に立つ人間を育成する場所だからそれは当たり前のことなのだが。そこでは人間関係の機微をうまく掴んで立ち回るだとか、目立ちすぎず暗すぎないポジションを確立するだとか、そういった行動が求められる。平たくいえば「空気を読む」。そこでは、茶碗蒸しのもとを入れて出てきたのがマカロニ・グラタンであってはならない。もしくは、なぜかマカロニ・グラタンが出てきたとしても、口を揃えてそれは茶碗蒸しですということが求められる。

 

 私は学校が嫌いだ。最近やっと言えるようになった。高校なんか一年でやめて好きな勉強をすればよかった。もちろん、過ぎたから言えることだ。とはいえ、16の時分に、今ぐらいの自尊心と行動力があったらなあと思わずにはいられない。自分はあまりにも時間を無駄にしてきたと思う。

 

 それはマカロニ・グラタンだ!といってしまう人間で、周囲に媚びる気配もない人間が、学校的な場にいるとどうなるか。当然浮く。私がいじめられなかったのは奇跡に近い。もし自分に吃音がなかったらいじめられてただろうな、と思う。逆に。あからさまにハンデがある人間をいじめるほどの悪党はいなかったようだ。

 

 だいたい障害そのものがマカロニ・グラタン(どんどん言い方が雑になっていく)なのに、どうやって取り繕えばよかったのか?精神的にだいぶ回復した今、考えるが、通常学級でハンデを持つ人間が健全に過ごす方法は、いくら考えても分からない。そんなの無理なんじゃねえのという気もする。

 

 少しでも尖れば叩かれる。私には年の離れた妹がいるが、彼女を見ていて、その傾向は私たちの世代よりも顕著になっているなあという感じがする。そもそも人間は全て違うし、普通なんてものも存在しない。なのに、あたかも「普通」が存在するかのように振る舞うことを求められる通常学級という場所が、息苦しいという人は多いだろう。私は日本の事情しか分からないが、条件的に、日本ほど「普通」が蔓延しやすい国もないだろうな、と思う。だから、日本で若者でいることは、とても大変だなあと思うのだ。

 

 もっとマカロニ・グラタン的な人間が許される社会になればいいのに、とずっと考えている。そのために自分は何ができるのかも。

 

こういう話になると長々と書き過ぎてしまう。それでは。