休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

ずっとモヤモヤしてること

 仲間とともに閉じた集団を作り、そこから離れると死ぬ、みたいな考え方あるいは処世術を身につけた人が苦手だ。一人で生きていく可能性を考えること自体できなくなっている感性が。

 

 面白いことないかなーっていう人を見かけるたびに殴りたくなる。それはお前がお前の輪を抜けようとしていないだけだ。茨城のり子の詩が思い出される。自分が水やりを怠っているのに気がつかないのか。

 

 話は変わって、中学から高校にかけて木地雅映子を読んでいた(『氷の海のガレオン』や『マイナークラブハウスの人』です。私は彼女のツイッターもフォローしているぐらい気になる作家さんである)。その頃はその頃で、木地雅映子の言葉が拠り所になったというか、登場人物たちが彼らのまま生きられる世界線に憧れていた。私にもこんな場所があればと、どちらかというと逃避行の気持ちで読んでいた。先日久しぶりに再読して、あの頃よりも理解できるなあと思い、返し刀でグサグサと文章が突き刺さる自分がいた。それは、私が成長したということであり、子供時代を脱したということであり、『あの頃』の自分から距離を置けたことによって得られた感覚なんだろうと思う。だって、苦しい最中に、私は苦しいと自覚できないから。

 

 『氷の海のガレオン』の中で、主人公・杉子が傷ついた、という言葉での明確な描写はない。けれど明らかに彼女は学校社会に対して傷ついたり疲れたりしているのであり、大人になってから読むと、そこらへんの機微がより理解できるようになっていて、痛い。それは、傷ついているのにそれに気づかないふりをする杉子に対してもだが、何より、鈍感なふりをして埋めていた、あの頃の感情を掘り起こされることに対してである。

 

 初読の時、弱いもの同士でつるまない杉子の行動になんで?とショックを受けていたけれど、(それは私自身が杉子であると同時に『まりかちゃん』でもあったから)、今なら、なぜ彼女が同士で群れることすら許さず孤高に生きようとするのか、というか、それを良きものとして描写する作者の美意識・世界観が理解できる。それは木地雅映子の母的優しさであるが、同時に、恐ろしく厳しいまなざしでもある。

 

 ここで冒頭に戻るわけだが、どうして私は集団への帰属意識が異様に高い人に対して違和感を感じるのかというと、こういった世界感が根底にあったからだということに気がついた。普通などなく、人は一人で生きていかなければならないという世界観。そこでは癒着は許されない。それは自分の人生に対して真正面から向き合っていない証拠であると思うので。自分の言葉で生きていこうとすれば、一人一人がそれぞれの船を操って、ゆっくりと進んでいくことになるのだろう。それは氷河を割ってジリジリと進んでいくような忍耐力のいる作業だ。たまに乗組員が増えることはあるかもしれない。けれどそれは永遠のパートナーにはなり得ず、結局操縦桿を操る人は一人しかいないのである。