休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

スイッチ

 引き続き、配慮を受けた感想の続き。

 

 できないことを明らかにして活動するのは、かなり気持ちが楽だったが、困ったこともあった。それは、私は日常会話では比較的どもる頻度が少ないのだが、そこでもうまく話せなくなったことだった。どうやら、流暢に話せるふりをしなくてもいい安心感から、全体的にハードルが下がったのが原因らしい。

 

 吃音だと言わずに気を張っている方が話せるのは心外だなあと思ったが、逆に、普段の自分が「普通の人」を装うためにどれだけリソースを割いていたのか、目に見えて突きつけられた気にもなった。もしも昔からその心労がなければ、自分はどんな人間になっていたのだろう?、と考えるのは時間の無駄であるが……

 

 まとめると、これまでのように、もし吃音だと打ち明けたらこの人は私を嫌わないだろうか?という心労は無くなった。しかし、日常生活でタイミングよく話せず会話に入れないストレスや、どもった時点で関わりを切られるストレスも、そういえば大きかったなーと思い出した。23の私は、そういうことには慣れていて、だから昔のようにいちいち傷ついたりはしない。だがじわじわ苛立つ。大人の方が、差別意識を露骨にしないためタチが悪い(略すと、大人はタチが悪い)。いつか絶対見返してやると思う。私の反骨精神の大元はそこだったな、と再確認するきっかけにもなった。そういう火種に事欠かない人生ではある。

 

 主観的には、話せる話せないのスイッチがささいな出来事で切り替わるのが、吃音の興味深さであり、難しさでもある。さっきまで話せたのに急に話せなくなる明確な理由が説明できないのは日常茶飯事だ。弱みを開示することへの抵抗は未だにあるが、私がありのまま話すことで、そういう肌感覚が今回関わった人たちに伝わればいいなと感じた。

 

 以上の諸々を感じられたので、今回は吃音だと明かして良かったと思う。