休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

遊牧民になりたい

 後輩がモンゴルに行ったという話を聞いたり、祖母が遊牧民だという子の話を聞いてから、にわかに、「遊牧民になりたい」という夢ができた。こうもすんなり言葉が出てくるということは、潜在的に憧れがあったのだろうか。考えてみると、子供の頃に読んだ物語が思い出された。

 

 それはチーズの発祥のお語で、ヤギ乳を動物の皮でできた水筒にいれて旅をしていたら、チーズができて大喜び、というストーリーだった。その話の舞台は砂漠で、旅人はそもそも中東の商人で、彼が乗っているのはラクダで、いろいろと相違はあるが、それでも、旅に対する憧れが植え付けられたのは、その本によってだったような気がする。旅人が思いがけずできたチーズをうまそうに食べる絵を見て、おいしそう!いいな!と思った記憶がある。

 

 また、日本生まれ日本育ちの悲しいサガで、地震に対する恐れが非常に強いのも一つの要因だ。私にとって定住は、安定よりもむしろリスクが高い印象がある。土地を転々としていれば、天変地異に巻き込まれる確率も下がるのではないかと、勝手に想像している。というか、家を買って何十年も住むって明らかにリスクだろうと常々思っているタイプだったので、遊牧民、というキーワードに反応したのは必然だったのだろう。

 

 現代の遊牧民は、季節労働者だと思う。資本を貯めたら焼き芋屋に転身しているかもしれない。いや、~できたらとか言っている内は、まだ実行に移せないだろうが。

花で囲まれた写真のこと

 花で囲まれた、綺麗な女の子の写真をネットで見た。あ、いいな、と思って、写真が貼られた記事を読み進める。間も無く気がついた。これは遺影だ。

 

 モノでもコトでも、第一印象とのギャップに気がつく瞬間はいつも、時間が止まるようだ。敬愛する深澤直人が、著作の中で言っていた。「デザインは、First wowとLater wowが大切だ」と(意訳です)。しかしこんな形でそれを体感したくなかったな、と思う。

 ほんとうにそうだろうか?

 実際は、こんな風に衝撃を突きつけられでもしないと、我々は日常の暗部に目も向けないのではないのだろうか。

  

 ガラスの下を通り過ぎていく言葉と、僅かな指の動きで交わされるコミュニケーション。とても薄っぺらだと思う。それがいいか悪いかは分からないが、我が身を振り返って考えると、ネットを見る行為が良い体験につながったことはあまりない。綺麗にレイアウトされた可も不可もない文章を追って、何かを知った気になる。実際にはなにも手に入れていないのに。

 

 ここ数日、表現の自由について議論が起こっている。発信された記事(表現)に、傷ついたとクレームがつく。私は、生きて何かを発信する以上、360度に配慮することは不可能だと思っているので、不快でない表現をしろと迫る人々こそが表現の自由を狭めているんだなあ、と思う。彼らは考えないのだろうか?自分が不快なものとされ、彼らが求めた「表現の自由」により排除される時のことを。

 

 冒頭の記事は、ハーフの女の子が日本社会に馴染めずに自殺した事件を書いたものだった。それを読んでやるせない気持ちになった。立場なんてものは容易に変わりうる。彼女だって、違う国で生活していれば、死なずに済んだのかもしれない。私は生きることそのものが表現行為だと思っている節があるので、どんな生まれでも思想でも、排除されることなく生活できる場所があればいいなと思う。それが表現の自由の根幹にあるものだと考えている。今の日本でそれが守られているのか?については、私の手に余る問題ではある。

グルーガンとやけど

 久しぶりに、超短時間で手を動かしてものを作った。

 地球のためにとか誰のためになど考えずに、一心不乱に手を動かす。できたものは、予想外に褒めてもらえた。

 嬉しかった。

 

 結局、私のもの作り好きは、こういうシンプルな感情から始まってるんだよなと思う。ありのままでは取り柄も自信もない自分だけれど、この頭と手から生み出されたものは誰かに褒めてもらえる。それが嬉しかったのだし、ものづくりをする人の根底には寂しさがある、とは、こういうことだと思う。

 

 一心不乱に作っている最中に、グルーガンでやけどをした。カッターで親指を切る、に並ぶ初心者レベルの怪我に、思いがけず楽しい気持ちになった。世の中ではデータ上のものづくりが増えているけれど、身体感覚を伴うものづくりを、私はやはり欲している。それは、こう言うと大げさだが、自分が生きていると感じられるからだ。そういう意味ではリストカットに似ている。ベニヤ板のささくれが刺さったり、ヤスリで指の先まで削ったり、シンナーでハイになりながら塗装をしたり、それこそがものづくりの本質であり、生きている実感ではないだろうか?と感じた。つまり、自分の命を削りながらものを作る、と言う行為が。

 

 周囲に褒められようが貶されようがあるいは無関心だろうが、私は自分が作りたいと感じたものを作り続けるのだろうなと、業を感じた土曜日だった。

病めるものは

 「かわいい」と言われる。

 「なんだかんだ大丈夫でしょ」と言われる。

 その度に違和感と、少しの苛立ちを感じる。

 それは、安易にそう口にしてしまう想像力の欠如と、その発言の裏にある自尊心の低さ、そして裏返しとしての歪んだ自己愛に対してなのだと思う。

 

 「あなたはなんだかんだ大丈夫でしょ(私はあなたほど行動力もコミュ力も愛嬌もないし)」

 だから何?と思う。私はそんな卑怯な言葉は口にしない。自分の不甲斐なさを他人のせいにして諦めたりしない。

 

 しかしこれは自分へのブーメランでもある。数年前の私は、今、自分が苦手とする人々と同じセリフを口にしていた。だからこれは、ただの同族嫌悪である。

 

 一見華やかで社交的で人生イージーモードに見える人の中には、様々な事情を抱えている人もいるという事実を知れてよかったと思う。知識としてではなく、実感として。そしてそれはおそらく、私自身にこの奇妙な特性がなければ知り得なかったことだ。そういう意味で、病める者は幸いであると思う。下から見上げた景色を知っているから。それは上から見下ろす景色よりも、暗く、見通しが悪く、絶対的で、絶望的だ。

 

 苦しんだ経験があるから人に優しくなるのか、厳しくなるのかは、その人と環境に依る、としか言えない。私は優しい人になりたいなあと思う。けれど時折、自分の中の化け物が嫉妬や嫌みやきつい言葉を口にするので、道のりは長いなあ、と感じている。徐々に小さくなってくれればいいけれど。

サバイバーのDNA

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 早朝から海に行った。親が釣りに行くと言ったので、便乗したのだ。実家暮らしの特権である。

 

 ところで、親に対する複雑な感情を、どう言葉にしていいか未だに分からない。成長すればするほど分からなくなる感じがする。一人の人間として親を判断できる知性を身につけた時、大概の人は落胆するのではないかと思う。「俺はこんな人間から生まれたのか」と。

 

 もちろん個人差はあるし、様々な事情もあるので、大雑把に語られる話題ではないだろう。私自身に関して言えば、親のことは尊敬しているが、好きという感情がついてこない。ただ、親というのはそんなものかなという気もする。好き嫌いで語るには、多くの出来事や感情や記憶が間にあるので。

 

 テロテロのTシャツと高校のジャージで、波止場に座って釣竿を垂らす。私の一番の目的は海を見ることなので、釣りはそこまで真剣にやらない。ただ、釣れた魚から針をとる方法や、血抜きの処理など、そういういう知識を教えてもらえるのは好きだ。さらに、釣り針が手に刺さると痛いしなかなか取れないだとか、魚は思ったよりヌルヌルしていて掴めないだとか、手についた鱗は乾いて白くなってから分かるだとか、実際にやらないと分からないことがたくさんある。いくら本を読んでも、魚が逃げず潰れない程度の力加減は書かれていない。色見本ばかり見ていても、生きている魚のエラの生々しい赤色は作れない。夜明け前に到着したので、日が昇ると一気に気温が上がったり、海面が徐々に下がっていったり、そんな自然の変化をただ観察しているだけでも楽しい。ずっとパソコンと向き合っている同級生に、外に出ればいいのに、と言いたくなるのはこんな時だ。外に出るだけで、百ほどインスピレーションが得られる。しかもそれは自分だけの一次情報だ。

 

 しかし私がこんなことを言えるのも、恵まれているからというのを忘れてはいけない。

 

 私の親はたまたまアウトドア好きで、だから子供にも、山の登り方や火の起こし方やテントの張り方や釣りのやり方を仕込んだ。その子供の一人が私だったのは偶然だ。珍しい体験を色々させてもらった経験が、今の私の生命力や発想力に繫がっていると感じるため、その偶然には感謝している。思うに、いくら親のことが苦手でも、私のサバイバル能力のように、気づけば受け継がれているものがある。それは常にプラスの要素だとは限らないだろうが、そういう抗えない大きな流れは確実にあると、釣った魚を見ながら考えた。だから素晴らしいというつもりは毛頭なく、私は親との関係を拗らせている部類に入るため、とても腹ただしいという話である

就職がこわい話

 腹をくくって就活に向き合い始めた(遅い)。

 

 手始めに自己分析と、仕事や人生や働き方に関する本を手当たり次第に読んでいる。その中で、『就職がこわい』という香山リカさんの本に出会った。

 

 香山リカさんの本をきちんと読んだのは初めてだった。タイトルから、就活に怯える大学生の話と予想をつけていたが、その問題を起点に、なぜ大学生が就活を回避するのかを精神科医的視点から多岐に分析しており、とても面白い。2004年に発行された書籍であるため、ところどころ内容が古い感はあるが、大半は今の大学生にも通じると感じた。

 

 ここで分析されて浮かび上がる若者の姿は、ざっくりまとめると「繊細で、周囲の出来事を自分に対する好き・嫌いで判断するため傷つきやすく、自己評価が低く、しかし特権意識だけ高い」というものだ。自分にしかできない仕事を求めているが、就職活動に自ら参加していく覚悟や度胸はなく、来るはずのない「天の声」を待ち続けている、という人物像。

 

 私はこの人物像に共感するところがある。特に、「自分にしかできない仕事をしたい」という思いは、しばしば抱えるところである。それが問題だとも感じないほど、私にとっては自然な感情だった。なので、こういった思考の根本原因と思われるものの記述を読んで初めて、自分が抱えている化け物のことを自覚した。

 

 そういった感情の大半は、自己肯定感の低さからきている。私はずっと、社会で仕事をすることで、自分の居場所を得て、認められたいと考えていた。確かにそれは働く動機の一つであるかもしれない。私にとって問題だったのは、それが還元率100パーセントで得られると考えていたことだ。自分がやりたい仕事を頑張れば、うまくいって、みんなから認められると。休学前の方が、より盲目的にそう信じていた。

 

 今の日本社会で始めからやりたい仕事ができるとは限らないし、仕事が必ずうまくいく確証もないし、そもそもみんなって誰だよ? 今なら突っ込めるが、休学する前、がむしゃらに走っていた頃は、そこまで考えられなかった。やはりその原因は、自分に自信がなかったからだと思う。いい会社に入れば周囲から一目置かれると、それで自分の価値を高められると、本気で信じていた。

 

 いや、就活において、そうやって盲目的に走り抜ける才能も必要かもしれない。けれど私は立ち止まることを選んだし、実際にそれで良かったと感じている。自分のことを冷静に見れるようになったからだ。客観的に自分と自分の将来について考える体力がついた段階で、この本を読めて良かった。

 

 あと、これは就職に悩む若者の背中を押す本であると同時に、若者の考え方の傾向やその背景を明らかにする本でもあるため、メインターゲットの大学生だけでなく、幅広い年代に読まれるべき内容だと感じた。それは、若者の問題=現代の問題でもあるからです。おわり。

倒錯した美意識

 「わたし、孤独耐性はあると思ってますけどね」

 「それは違うと思う」

 

 「ほんとうに孤独な人はそんなこと言わない」

 「一般家庭で生まれ育った人が、孤独になるのは無理だよ」

 「誰にも言葉が通じない、誰からも話しかけられない、その状態がずうっと続く、それがほんとうの孤独」

 

 君が言っているのは一人が平気だってことじゃない?と指摘され、なるほどと考え込んだ。人と繋がるには才能と技術がいるが、孤独にも才能と技術がいるのだな、と思った。前者のそれは意図的で、後者は不可抗力だという気がするが。

 

  Q.人から好かれるには?

  A.笑顔でいる。話を聞く。相手が望むことをする。つまり、関わるメリットを感じさせる。

 

  Q.ではどのような人が嫌われるのだろうか?

  A.関わるメリットを感じさせない人。むしろマイナスになる人(見るだけで不快になるなど)。

 

 身も蓋もない。が、一時期はこういうことをペシミスティックに考えていた。

 

 確かに、わたしは真の孤独を体験したことはない。しかし、その手前まで行ったのかなとは思う。高校の頃の、誰にも話しかけられない、そして誰もわたしに関わろうとしない(関わるメリットがある人間ではなかった)という状態は、精神がねじ曲がる程度にはきつかった。わたしがそれに耐えられたのは、3年という時間制限があったからだ。もしその状態に終わりが見えなければ、ほんとうに鬱になっていたのではないかと思う。終わりのない青春というホラー。

 

 他人と意思疎通できないというのは、人間が社会的動物である以上、心の健康によくない因子の上位にくると思う。その原因は様々だ。常識が違っていて会話ができない。方言が強くて通じない。相手が聞く耳を持たない、など。そして、吃音もちのわたしは、吃音症や場面緘黙の人々は、割とこの状態に陥りやすいのだよな、とも思う。話せない、だから価値を見出されない、そしてより話かけられなくなるの負のループ。

 

 孤独の才能といえば聞こえはいいが、しかし孤独はいともたやすく人を殺す。それは身に沁みて分かっている。だから孤独な人を助けたい、などというと欺瞞に響く。なぜだろう。それは、真の孤独とは、助けたい、とも思われないからではないか。よしんば助けたい、と思われても、本人に助かりたいという意欲や希望がないからではないか。あまりに長い時間独りだったので、彼の心にはもう何ものの言葉も響かない。そういうイメージだ。

 

 そこまで考えて、孤独というのは概念なのだなと思った。それを追求するものまた、一つの美意識であるのだろうか。