休学中ですブログ

大学を休んでいる間、サボらないための日記

iPhoneカメラマン

 作品の物撮り以外、写真をほぼiPhoneで撮る。SEなので、最新機種に比べたらそりゃあ画質は良くない。しかし、良い機器を用いると、深く考えなくてもいい写真が撮れてしまうのが恐ろしいのだ。なんとなく出来てしまうことほど恐ろしいことはない。

 

 大学の設備に3Dプリンターが導入された頃、それを使うためにCADソフトを学んだ。その時に、なんとなくでそれらしい形が作れて、しかも実際に出力できてしまうことに違和感を覚えた。アートならそういう偶発性に頼るのもいいかもしれない。しかし、我々がやってるのはデザインなのだから、形は作り手の意思を反映したものでなければならないはずだ。それがだるいなら粘土でもこねていろという話である。その違和感をリアルタイムでは言語化できなかったが、画面上でそれっぽい形を作って喜んでいる同級生を見ながらモヤモヤしていたし、それに流されそうになる自分を戒めていた。私がスタイロや紙できちんと試作を作るようになったのは、皮肉にも3Dプリンターを制作に用いるようになってからだった。

 

 それと似たような感情を、性能が良いカメラを買いたがる人に対して抱いている。確かに一定のクオリティ以上に仕上げるには良いカメラ、良いレンズが必要だろう。しかし基盤の技術はないがしろにされていないか。フリーペーパを作っていた頃、いいカメラを持っているのに、使えない写真ばかり撮る後輩に苛立っていた。そのカメラの性能を活かせないなら、写真係を辞めろと思っていた。しかし世の中には、いいレンズを買うことに生きがいを見出している人々もいるので、そこに口出しをするのは微妙な線なのである。ただ、普通のカメラでいい写真を撮れる人が本物だという私の持論は変わらない。

北より便り その4

 朝一番で欠航が決まった。実は人生で初めての欠航だ。一人だったら慌てふためいていたかもしれないが、幸いにも親がいたので助かった。とりあえず代機をとるため空港に向かう。

 北海道の空は曇りだが降ってはいない。車のラジオからは、和歌山で川が決壊だとか大変なニュースが読まれているが、実感がない。関西にいなくてよかったねー、ぐらいである。当事者でないというのは、かくも鈍感なものだ。

 

 千歳空港に着くと、大勢の人がいた。TV局も来ている。この日の便がほぼほぼ欠航になったため、振替カウンターには列ができていた。待ち時間に、どうやって帰るかを考える。意外だったが、旅よりもこのプロセスが楽しかった。函館まで車で行くか、いや、羽田に飛んで陸路で帰るか、などぐるぐると考える。そこで思ったのは、旅を面白くする方法なんていくらでもあるんだなあということだった。普段は効率を優先して、安い飛行機で直接行く方法をとりがちだが、別に手段はそれだけではないのだ。結局、新潟まで飛んで陸路で帰ることになった。

 

 それで、その日の夕方にはもう新潟についていた。スピード感がすごい。新潟空港の土産物屋を物色していると、面白可笑しくプロモーションされたグッズや、職人の技を用いた日用品が販売されており、そういや新潟にはsnow peakの本社があった、そうか、新潟はものづくり的にこんなに多様で面白い街だったのだな、と気が付く。しかし新潟観光をする時間はなく、残念だ。夜ご飯に入った居酒屋がとても良かったり、ホテルの接客が親切だったりと、完全にノーマークだった新潟県だが、本当に立ち寄れてよかったなあと思えた。何かと北海道が注目されがちだが、東北の中にも、頑張って盛り上げている地域がある。私がよく用いる、二流の果物の方が美味しい理論である。新幹線を使えば関西から4,5時間で行けることも分かったので、今度は東北の諸国巡りをしようと心に決めた。

 

おわり

 

(この旅行記は1/3ほどフィクションでした)

北より便り その3

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 朝食を食べたその足で、ホテル近くの白ひげの滝を見にいく。渓谷にかかる橋の上から滝を見られ、確かに絶景だった。白ひげの滝と青い池は繋がっているようで、遠くの川底が青く見えた。今手を滑らしたら確実におじゃんだな、と震えながら写真を撮る。

 

 その後、リベンジで青い池に行く。朝日が差し込む湖面ははっきりと青く、瑪瑙のように奥が見通せない。昨日と違い駐車場は満車で、池周囲の遊歩道も、その狭さに反比例して人が溢れている。こんな小さい観光地に、こんな大きい駐車場はキャパオーバーではないのかな。売店で売られていた、真っ青な青い池プリンのシュールさが面白い。

 

 車に乗り込み、富良野に赴く。富良野は農業が盛んな土地なようで、市を眼下に眺められる場所に出た途端、絵に描いたような丘陵の農業地帯の風景が広がり、日本にもこんな場所があったのか、と感動した。広々とした畑の中に点在する建物がカラフルで綺麗だ。

 

 有名なファーム富田に着く。隣接するとみたメロンハウスの頭上には、大きなメロンのアドバルーンが浮いていた。園内にはフルーツ直売所やお菓子屋、土産物屋などがあり、どれもが思った以上に洗練されていて、楽しみながら見られた。肝心のラベンダーは、季節外れのため咲いていなかったがまあいい。ラベンダーソフトを食す。日本人よりも、中国人や観光人が多い印象だ。彼らは大体サングラスをかけており、私もサングラスを着用していたため(マイブーム)、売店のおばちゃんに外国人と間違えられた。

 

 予定を繰り上げて旭川市旭山動物園に赴く。いつも旭川動物園か旭山動物園か迷ってしまう、旭川市旭山動物園。その著名度から、とても大きくて立派な施設だと思い込んでいた。実際は、手作り感溢れるコンパクトな施設だった。動物の数も決して多くはない。しかし、元飼育員で絵本作家のあべ弘士さんが描いた看板があったり、とても丁寧な解説があったり、お金をかけすぎない範囲で見せ方が工夫されていたりと、観察のタネがたくさんあり飽きない。お盆休みのため、園内には子連れ家族が多かった。夕方ごろ狼が遠吠えをしていた。すると、狼の檻の前に集まった子供たちが一斉に遠吠えのマネをし出して、分かるよ、遠吠えって魅力的だよな、と心の中で呼びかける。

 

 ところで台風10号が迫っていた。帰りの飛行機が欠便になる可能性もあるというが、心配しても仕方がないので、旭川市内でジンギスカンを食べた。台風が近づいているためか、風が強くて涼しい。旭川駅前には、どこかでお祭りがあったのか、浴衣姿の若者が大勢おり、どう考えても寒いだろうに気合だなあ、と感じいった。

 

北より便り その2

 札幌に泊った翌日、まずピリカコタン(アイヌ文化交流センター)に行った。ここは名前の通り、アイヌ文化を学べる施設だ。一番の特徴は、展示品がレプリカのため、触りまくれるところである。独特の文様が刺繍された着物や、木の食器たち、鮭の革靴など、アイヌ文化圏の日用品をふむふむと観察する。特に木の器が、塊からそのまま削り出した迫力があり、かっこよかった。民芸品の飾らない美しさに惚れる。

 センターは小さめなので、1時間もあれば見終わる。周囲には温泉やキャンプ場、つまり自然しかなく、札幌市内に帰ろうとバスに乗ったところ、運賃が足りなくて降り際に焦る(どうにかした)。運転手さんごめんなさい。

 

 札幌ラーメンを食べ、美瑛まで移動する。日が沈む前に、「青い池」に着く。これは水面が青く見える不思議な池とのことだったが、太陽光が差さないと青く見えないため、日没前に訪れても特に青くなかった。普通の池の真ん中に枯れ木が刺さっている様を写真に収める。

 

 ホテルは青い池の近くにあった。どことなくバブルの香りを残す建物で、かつては大勢の人が来たのだろうな、と感じさせる。昔は近くにスキー場があったらしいが、それが潰れたので、冬は人が少ないらしい。あまりに短期間で変わる世相に対して、必要以上のものが作られてしまうのは、現代的な問題なのかなあと思う。作業効率が良くなったので、短期間で立派なものが大量に作られる。そしてそれが必要とされなくなった後も残り続ける。

 

 北海道では主に車で移動するので、体がなまる。宿泊した施設にはプールが併設されており、水着が借りられたので、食事後に泳いでいた。旅行に来てまで水泳をする女子大生とは…と思ったが、まあいい。

 

 借りた水着はサイズを間違えたのでぶかぶかだった。それにしても、水泳をやっていた頃から随分肉が付いてしまった、と膨らんだお腹を見て思う。ロビーに面した壁がガラス張りになっており、時折他人に見られて恥ずかしい。羞恥プレイか。プール内には、私の他に兄弟らしき男の子たちが3人いるだけだった。とても楽しそうに遊んでいて、こういう無邪気さっていいよなあ、と思いながら、黙々とクロールで泳いでいた。

 

 ホテルは天然温泉を目玉にしており、プールの更衣室から、螺旋階段を上がって浴場の更衣室に行けるようになっていた。ここはstaff onlyか…?な裏道を通っていくため、楽しい。私は物事の裏側を見るのが好きなのだ。宿泊する時は、ホテルの優雅さの裏にあるものの片鱗を垣間観るときがあり、にやにやする。目に見えるものばかりじゃつまらないと思う。

北より便り

 知らない土地に行くのが好きだ。なので、北海道に行ってきた。

 

 しばらく海外が続いていたので、保安検査の簡素さにびびる(国際線と同じ基準だと思い込んでいた)。飛行機で2時間ほど飛ぶ。地図で見ると、目的地である千歳空港とロシアのウラジオストクはだいたい同じ経度で、ここまで来たならロシアにも行きたいな、と思う。空港に着くと曇り空で涼しい。そして空が広い。京都生まれの私にとって、山がない風景は異質に映る。空港内をバスで移動する。土地が余っていて、ポツポツと高山植物がまとまって咲いている。北にきたという実感はあまり湧かない。

 

 レンタカーを借りる。初めて見る規模のレンタカー屋であった。一体何台あるのか分からないが、車社会の片鱗を見た。千歳から札幌まで移動する。道中の道路は真っ直ぐで、周りを畑や牧場に挟まれており、フランスからオルレアンまでの道のりと光景が被っていた。

 

 札幌に着いて、道路の道幅が広いことと、綺麗に碁盤の目状の街並みに驚いた。空間の使い方というか、空間の余り方は、やはり、海外の国土が広い国に似ている気がする。ホテルにチェックインしてまず時計台に赴き、日本三大がっかりを体験する。閉館時間が過ぎていたため中には入れなかったが、庭の木が立派で思ったより楽しめた。その後に、旧北海道庁旧本庁舎の赤レンガ庁舎に赴く。堂々たる洋風建築で感動する。スケールといい建築のつくりといい、異国感が漂っている。市庁舎の中には北海道の歴史に関する展示がされており、とても興味深かった。欄干の装飾など、ディテールに凝ったいい建物だと感じた。夜ご飯は飲み屋で。関西の安い飲み屋ほどの値段で、とてもおいしいご飯が食べられた。日が沈んだ街を歩くと肌寒い。そこでやっと、北にいるんだなあと実感した。

 

 札幌駅の展望台から夜の市街を眺めて帰る。平野のため、夜景がどこまでも広がっている風に見えて、飽きずに眺めていた。

草むらとロマンチシズム

[ロマンチシズム] 空想的で情緒・感傷を好む精神的傾向。特に十八世紀末から十九世紀初めにかけてヨーロッパに流行した文芸上の傾向。古典主義に反抗し、個性を重んじ、知性より感情の優越を強調。浪漫主義。

 

 ーー

 

 花火を見に行った。土手に座って開始を待つ。土手には雑草が生い茂っており、だいたい大人の腰に届く高さだ。その中に座るので、雑草が壁のようになる。その状況に、楽しさと、なぜか懐かしさのようなものを感じた。そんな経験もないのにな。

 

 ここ四年ほど続けて、同じ花火大会に行っている。もともと大規模かつ混雑することで有名だが、今年は特に、人が多いと感じた。というか、年々来場者が増えている気がする。花火大会の前日に、地元・奈良の燈花会に行ったが、そこでも似たことを感じた。年々豪華になり、来場者も増加している。特に燈花会は子供の頃からの馴染みイベントだが、昔はもっと手作り感溢れる、片田舎のほのぼのイベントだった記憶がある。いつの間にこんな、インスタ映えおしゃれイベントに成長したのか、目を見張る思いだ。

 

 ネットに情報が溢れ、何を信じればいいのか思考放棄したくなる状況で、「皆が当たり前にいいとするイベント」がよしとされているのかな、と考えるのは短絡的に過ぎるだろうか。夏、浴衣を着て、友達や彼氏と花火を見にいく。ケチのつけようがないプランだ。深く考えなくてもいいね、と評価してもらえる行動をしたがる人が増えたのだろうか。あるいは、考えることに疲れたのだろうか。あるいは、自分の意思を持ちたくないのだろうか。なんの根拠もないため、これはただの一方的な妄想だが…

 

 あるいは、インターネット上の世界は、畢竟現実にはかなわないという証左だろうか。チクチクする草の上に座って、首筋に飛んでくる虫を払って、日差しに焼かれながら花火を待つ。非効率的だし、清潔でもない。しかしそういう肉体的な記憶は、良くも悪くも印象的なため、長く残りやすい。その種の記憶は、本人も意識しないタイミングで不意に表出する。夏草の青臭い臭いを嗅いだ時に、そういえばあの時、と思い出す。そういう記憶は、ネットの世界では得にくいのではないか。得れたとしても限定的なのではないか。そして、人々はそういったことに気が付き始めているのではないか。

 

 草むらってロマンだよね、と言って笑われた。ロマンは生活の隙間を埋めるものだと思う。効率的、合理的なだけでは、息苦しくて疲れてしまう。なぜなら、人間は非合理的な生き物だから。ロマンは突き詰めれば不必要なものだが、それを求める人が増えているのかな、と感じた。息苦しい日常で呼吸をするために、それは必要な間隙なのだと思う。

引き出しを壊す

 引き出しを有効活用できない人間である。

 インテリア誌を立ち読みしていると、しばしば、収納特集!のような見出しが目につく。それをふむふむと読みながら、片付けという概念は面白いな、でも自分には向いていないな、と思う。

 

 カテゴライズが苦手だ。全て散らかしておきたい。そうしないと思考が進まなくなる。いつかどこかで、机の状態は持ち主の頭の中、という心理テストを見た。当たっていると思う。私の机も頭も、常に雑然としている。自分の創造力はそこから生まれているという実感があるため、それを治す気はない。よく物が消えて時間を無駄にするのが玉に瑕だが。

 

 カテゴライズが苦手というのは、概ね私生活にも当てはまる。私はこの人にはこの話題、とジャンル分けをすることがあまりない。しかし、同年代の子と話していると、友達・知人をそのようにカテゴライズする傾向が目立つ。映画をみるならあの人、服を買うならこの人、こいつにはこの話はしない。人間関係を機能別にして、確かにメリットもあるだろうが、私はデメリットの方が多い気がする。予想がつく範囲の人間関係は居心地がいいだろう。伸ばした腕で描ける円の中にい続けるのは、狭い世界に居続けるのは、安心だろう。しかしそれでは自分の幅が広がらないのではないか、と思う。それに予想外のことが起こらない生活なんてつまらない。出会う人をカテゴライズせずにあらゆる話題をぶつけてみることで、自分の殻も、相手の殻も破られる場合がある(しかしこれは、双方に相手の話を受け入れる素地がないと成り立たないため、一概には言えない)。それで嫌われることもあったが、反対にとても好かれる場合もあった。なので私は、あらゆるものを分別せずに、引き出しに突っ込むというポリシーを採用した。ただ、人には向き不向きがあるので、自分の主張を押し付ける気はない。