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大学を休んでいる間、サボらないための日記

意識、無意識

 知っているから物申せる、という傲慢さがある。

 自分ごとになるが、私は、何の苦労もしてないように見える人に対しての偏見がすごい(実際にはそんな人はいないにも関わらず!)。少し前まではそれに気がついていなかった。無意識に、あの人は苦労してない感じがするから苦手、などと傲慢なことを言っていた。翻訳すると、「私と似たような苦労をあの人はしていない、だから嫌い」ということなのだが、はっきり言語化すると自分の幼稚さが嫌になりますね。

 

 フィクションの世界では、しばしば、障害者は疑いなく綺麗な心を持っているかのような描写がある。確かに無垢な部分はあるかもしれない。しかし、それはまともに人と関わった経験値の少なさゆえであり、心からの善意ではない気がする。抑圧された人間は、決してまともではいられない。表面上は人に優しくできても、心の中は歪んでいる。それゆえ、本当の意味で人と関わるのが難しい、と感じる。

 

 私は今だに同級生と呼ばれる人と仲良くなる方法が分からない。それは厳しい学校生活をやり過ごすために、ただ黙って椅子に座っていた頃の後遺症だ。私は学校という場所で出会う人々を敵としか見なせない。そうやって自分を守ってきたからだ。学校以外の場所で出会ったら仲良くなれただろうな、という人が何人かいる。そう感じるのはとても辛い。

 

 少し前まで、それに気がついていなかった。なんとなくここにいるのが苦手だ、人とうまくやれないのは何故だろうとずっと思っていた。自分の強烈な偏見に気がついたのは、心の壊れた部分、歪んだ部分を意識してからだ。そして、私はその偏見ゆえに、人に攻撃的な言葉を投げつけてしまうことがよくあった。抑圧されると、自分を守るために心が歪み、その歪みのせいで人とまともに関われなくなる、そしてさらに悪い状況に陥る。望まない負のスパイラルから抜け出すのは難しい。原因が分かっていても抜け出せないことだってある。それはほとんど運だ。

 

 毎回同じ結論になってしまうの、頭が悪いなあと思う。私はまだ運が良い方だ。しみじみ噛み締めている。しかしこれは氷山の一角なのだ。